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#01 高瀬隼彦 ─米国の日本人建築家の先駆け、リトル東京とともに プリント メール
作者 辻川紗矢    2009/06/05 金曜日 00:00:00 JST
ロサンゼルスでの取材中、一番驚いたこと。それは、今回ご紹介する高瀬隼彦という人物を知らない日本人に出会わなかったということだ。高瀬さんはいわば、 日本人建築家がアメリカで活動することになったパイオニア。野球で言えばまさに「野茂」である。高瀬さんの成功があって、それに憧れ、その後の日本人がア メリカへと渡る目標となったのである。そんな功績がありながら、ご本人はいたって謙虚。物腰柔らかな語り口で、過去から現在に至るまでの経緯を丁寧に語っ ていただいた。また、現在進行中である、リトル東京のプロジェクトについても、リトル東京の方々を交えながらお話をうかがうことができた。

──まず、高瀬さんの経歴についておうかがいします。1953年に東京大学をご卒業されたということですが、その時代、アメリカで働くというのはかなり珍しいことだったのではないでしょうか。日本を出ることになったきっかけは?

takase01.jpg確かに日本を出ることが非常に困難な時代で、本当に幸運だったと思います。最初はブラジルに行ったんです。1964年に戦後最初の万国博覧会がブラジルのサンパウロでありました。その万博で、日本館の設計をされたのが、堀口捨己(1895-1984)先生という日本建築の大家の方でした。私はその頃、大学院に通いながら、堀口先生の教え子で大江宏(1913-1989 丹下健三氏と同期)先生という方の事務所で実務を勉強していました。堀口先生がかなりお年だったので、自分でブラジルまで監督に行くのは難しいということになり、大江先生に託されたんです。そして大江先生のアシスタントとして、私がブラジルに行くことになりました。
また、その万博のマスタープランをオスカー・ニーマイヤー(1907年~)というブラジルの建築家がつくったんですけど、ニーマイヤーと言えば、僕らの世代にとっては大変な建築家で、建築雑誌で作品を見て我々建築の学生は、それはもう憧れていた。そんなこともあり、もしできたら日本館の仕事が終わってもブラジルに残って、勉強したいと思い、日本を出ました。

──憧れのブラジル、やはり素晴らしかった?

それが、ブラジルに行ってがっかりしちゃったんですよ。というのも、そのニーマイヤーのデザインというのはもう本当に格好だけでね、あの頃はまだブラジルは工業水準が全く低かったですから、施工の方法は古いし、メンテナンスも悪い。当時すごく有名だったブラジル文部省の建物も、行ってみたらタイルは剥げ落ちているし、もうがっかりしてしまって。これじゃダメだと思ったんです。
それで、ブラジルへ行く前にアメリカを通って行ったんですけど、その途中でいろんなアメリカの新しい建築を見て、建築家にも何人か会って、それはもう感心しました。あの頃は第二次大戦中にナチスに追われて、ヨーロッパで活躍していた芸術家やグロピウスなどの建築家もみんなアメリカへ来ていたので、このままブラジルに残って勉強しても仕方が無い、やっぱりアメリカでないと、と思ってね。特に前述したようにあの頃は、日本を出るということ自体がそもそも大変なことでしたから、このまま日本に帰ってしまったらもう当分は出られないということで、大江先生も賛同してくださいましたし。

──それでブラジルからアメリカへ来られたわけですね。

でも、伝手(つて)なんて全然無いですし、どうしていいかも分からない。それで思いついたのが、ニューヨークに行く途中デトロイトに寄って、ミノル・ヤマサキ(1912-1986)に会っていた。9.11で崩壊してしまったニューヨークのあのツインタワーを設計した建築家です。その頃はそんなに有名ではなかったんですけど、かなり認められてきてちょうど上り坂のときでした。ヤマサキは日系二世で、とても気さくな人でした。デトロイトを案内してくれたり、自分の作品を見せてくれたり。だからイチかバチかでとにかく手紙を書いたんですよ。それも今から思えばひどいブロークンイングリッシュで書いて、全く期待もしていなかったんですけど。そうしたら、ちょうど神戸のアメリカ領事館の設計を受注した時で、「図面に日本語の書き入れができて、メートル法で図面が書ける人を探しているから、すぐに来てくれ」という返事が来たんです。それでブラジルでの仕事を終えてから1年間ヤマサキの事務所で働きました。さらに、そのときハーバードを出てヤマサキの事務所でチーフデザイナーをやっていたダン・ヒサカという、やはり日系二世のアーキテクトがいるんですけど、彼が「アメリカで勉強したいなら一度は学校へ行った方がいい」と言ってくれて。ハーバードも受かるかわからなかったんですけど、ポートフォリオを送ったら受け入れてくれたんですよね。そこでマスターを取って、またヤマサキの事務所に戻って、そのあとニューヨークのSOM(Skidmore,Owings&Merrill)という、建築設計事務所に入りました。結局ハーバードを卒業してから4年ぐらいアメリカにいて、60年に日本に帰ったんです。

──なんだかすごい運命ですね…!そして、一度日本へ戻られた。

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銀座リッカーミシンの本社ビル
そう。それで、戻ったもののどうしようかと思っていたら、ちょうどその頃ロサンゼルスの日系人から鹿島建設に、リトル東京の再開発になんとか力を貸してほしい、という話があった。リトル東京というのは、戦争中日系人が強制収容所にいた間に随分と荒れ果てていましたから、もう一度取り戻そうということで。当時の鹿島の会長が鹿島守之助さんという方だったんですけど、その方が何とかそんなリトル東京を助けようとおっしゃって。僕は、たまたま鹿島建設の御曹司で鹿島昭一氏が同級生で友人でしたので、それに協力することになったんです。そして64年にアメリカに来るまでの間、足掛け3年ぐらいは、日本で鹿島の設計部にいました。鹿島昭一氏は当時は副社長で、後に社長を勤め現在は最高相談役をしていますが、すごく秀才で設計するのが好きなんですよね。でも彼の立場があるから、実際に自分で手を下して設計ってなかなかできないんですよ。それでたまたま私が帰ってきたから、
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リトル東京にあるカジマビル
一緒に設計をしようということになって、銀座にあるリッカーミシンという会社の本社ビルを設計したんです。当時としてはアメリカ式のカーテンウォールの建物はかなり珍しくて、一緒に63年の建築学会賞をもらいました。そして64年にアメリカに来て設計したのが、リトル東京のカジマビルでした。

──そこからアメリカでたくさんの設計を手がけられたわけですね。

アメリカ日産の本社ビル、セイコー・インスツルメント本社ビル、三共精機西部本社ビル、ソニーのサンディエゴ工場…。ちょうどこの頃に日本のメーカーがアメリカに出てきたんですよ。それで彼らがまず必要だったのが倉庫とオフィスだった。だから鹿島との関係で、そういう仕事を随分しましたね。


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リトル東京のホテルニューオータニ(現京都グランドホテル)
──その後こちらで独立されたんですね。アメリカに留まった理由は?

私が鹿島から独立して、ここでやろうと決心してオフィスをつくったのが77年。その時代って、松下幸之助さんなんかが言っていたんですけど、日本は人が多すぎる、だから日本はとにかく海外進出をしないとやっていけない、食べていけない、と。日本の外に出て仕事ができる人は、なるべくそうするのがお国のためであるという時代だったわけです。まぁ今逆にそれが仇になって輸出に頼りすぎて困ってるわけだけども。今と本当に考えが違いますよね。
それとね、やっぱり何と言ってもロサンゼルスは住みやすいですよ。特に気候が良いので、日本に帰るのも好きなんですけど、あの夏の蒸し暑いのはもう、なんとも。それと、あとは家族(娘夫婦と孫2人)がいるのが大きいですね。

──それに、建築家という職業は、英語さえできれば割と国籍の壁が無いのでは?

そうですね。アメリカという国がそもそもそういう国ですよね。弁護士にしても建築家にしても、外国人でもライセンスが取れますし。

──デザインもアメリカのほうが斬新なものを出しやすいのではないですか?

それはどうなんですかね。もう今はアメリカだろうが、日本だろうが、ヨーロッパだろうが、同じじゃないですかね。近頃はただただ奇をてらって、人を驚かせるような変わった建築がもてはやされる感じがするでしょう。特に我々は教育を受けたのが古くて、機能主義の教育で、機能を無視したらそれは建築じゃない、といまだに思っているので。それとやっぱりクライアントのためにはできるだけ予算に合わせて経済的につくるべきだと思っています。でも最近はオーナーさん自身がそういう変わった建物を望む場合も多いみたいですけどね。

──高瀬さんがロサンゼルスに来られた頃と現在とではロサンゼルスは違いますか?

それはもう全然違いますね。この40~50年の間に、文化的な面での水準がずっと上がりました。以前はニューヨークに比べたら、やっぱりロサンゼルスは全く田舎という感じだったんですけど、今はLAシンフォニーにしてもLAオペラにしても随分水準が上がりましたし。さらに東洋、特に日本の影響というのは、僕らが来たときとはもう全然違います。僕たち「LA着物クラブ」というのをやっているんです。着物が好きで、日本から着物を持って来ているけれど着るチャンスがない、という人たちが集まって、なんとか着るチャンスを作ろうということで始めた会なんですけど。私が南加日系商工会議所の会頭だった時に、リトル東京で夏にある「二世ウィーク」というお祭りの中のパレードで紋付羽織袴の正装でオープンカーに乗ったんです。そうしたら、それを見ていた人が、是非そういう日本の文化を守りたいと言ってくれて、この会をつくりました。今は随分アメリカ人の会員も増えて、みんな自分で着付けして帯も結べて。この間なんてお花見に行ったんですけど、アメリカ人の女の子がわざわざ桜の模様の着物を選んで着てきてね。こんなこと僕らが来た時代には考えられなかったです。

そんな高瀬さんは現在、ロサンゼルスのNPO「リトル東京サービスセンター(LTSC)」のプロジェクトを手がけられています。LTSCは、リトル東京で暮らすお年寄りや子どもたち、また日本人を含む外国人や低所得者層、英語のしゃべれない人たちの生活や住宅面などを支援をしている団体。このプロジェクトは、リトル東京に人々が集う場として「ロサンゼルス武道館」という体育館を含む集会施設を建設するというものです。
──図面を拝見しましたが、日本建築を取り入れたかなり斬新なデザインですね。
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ロサンゼルス武道館(完成予想図)


この設計の要点は、現代建築と日本の伝統建築との融合を目指しています。ファサードのコンクリート打ちはなしの柱と梁、それと対比する、障子をイメージした上部のミラーガラスのカーテンウォール、屋根の日本瓦、屋上の日本庭園などがポイントです。1964年にこちらへ派遣されて以来45年間、リトル東京の再開発のために微力を尽くしてきました。その間、カジマビルをはじめ、ホテルニューオータニ (現京都グランドホテル)、リトル東京プラザ(オフィスビルと駐車ビル)、東本願寺、都ホテルなどを設計、多分この「ロサンゼルス武道館」がリトル東 京での私の最後の作品になるだろうと思っています。だから全力を尽くして設計に取り組もうと考えています。

また、LTSCの方にもお話をうかがい、所長のビル・ワタナベ氏はこのLTRCのプロジェクトについてこのように語っています。

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バスケットや剣道などの武道に利用したいと話す(完成予想図)
リトル東京のコミュニティには125年もの歴史があります。その間にリトル東京は大きく変化し、若い人たちはだんだんとここに住まなくなりました。日系の若者はバスケットや武道が大好きなんです。だからこの体育館をつくることで、日系の若い人たちに戻ってきてほしいと思っています。そうすればリトル東京は今後も強いコミュニティでいられると思うんです。ここに人を集めて活性化するという当センターの機能を考えると、このLTRCの位置づけは、今一番重要なプロジェクトなんです。


このプロジェクトの実現には、市からの助成金と企業やコミュニティからの募金が不可欠ということで、現在そのための資金を募っている段階。ビルさんは、募金と同時にこの施設の名前を冠す「会社のスポンサーも募集中」とも話していました。


──最後は、建築に対する高瀬さんの想いで締めたいと思います。ずばり高瀬さんにとって建築とは何ですか?

私はそもそも若いとき建築家になるつもりはなかったんです。子どものときから飛行機が大好きでしたので、大学は航空学科に行くつもりだったんですよ。ところが戦争に負けて、マッカーサーの命令で航空学科が無くなってしまった。それで、どうしようかといろいろ考えたんですけど、結局どういうわけか建築を選んだんです。僕の仲間で一緒に模型飛行機をつくったりしていた、飛行機好きな友達の多くも建築に進んだんですよ。機械とか電気ではなく建築にね。それは何でだろうと考えてみると、僕らは飛行機のメカニカルな面よりも、格好良さや美しさといった面に惹かれていたんじゃないかと思うんです。工学部でそういう美しさを追求する分野って、建築しかないわけですよね。だから建築の、エンジニアリングでもあり、アートでもある、そういうところに惹かれて、今でもそれがおもしろいなぁと思っていますね。

 


高瀬 隼彦 Takase Hayahiko

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タカセ・アソシエーツ Takase Associates, Inc.  Principal
1930年東京生れ。東京大学工学部建築学科卒業、ハーバード大学大学院デザイン学部建築家修士課程修了。タカセ・アソシエーツ代表。その間、鹿島建設設計部参与、カジマ・インターナショナル取締役を歴任後、日建アメリカ社長を務める。
「銀座リッカー会館(東京)」 - 1964年日本建築学会(JIA)作品賞受賞、「セイコー・インスツルメント本社ビル(トーランス)」 - 1975年米国建築家協会(AIA)作品賞受賞、2000年秋 勲五等双光旭日章受章、2005年二世週日本祭パイオニア賞受章、2006年ベルカ賞(BELCA賞)受賞 - 「旧銀座リッカー会館(現ダビンチ銀座ビル・東京)」
Takase Associates, Inc. 5110 Llano Drive, Woodland Hills, CA 91364-3030 TEL.818-703-0208 FAX.818-703-6936 
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最終更新日 ( 2010/02/23 火曜日 20:04:44 JST )
 
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