| #01 高瀬隼彦 ─米国の日本人建築家の先駆け、リトル東京とともに |
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| 作者 辻川紗矢 | 2009/06/05 金曜日 00:00:00 JST | ||||||||||
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ロサンゼルスでの取材中、一番驚いたこと。それは、今回ご紹介する高瀬隼彦という人物を知らない日本人に出会わなかったということだ。高瀬さんはいわば、
日本人建築家がアメリカで活動することになったパイオニア。野球で言えばまさに「野茂」である。高瀬さんの成功があって、それに憧れ、その後の日本人がア
メリカへと渡る目標となったのである。そんな功績がありながら、ご本人はいたって謙虚。物腰柔らかな語り口で、過去から現在に至るまでの経緯を丁寧に語っ
ていただいた。また、現在進行中である、リトル東京のプロジェクトについても、リトル東京の方々を交えながらお話をうかがうことができた。
──まず、高瀬さんの経歴についておうかがいします。1953年に東京大学をご卒業されたということですが、その時代、アメリカで働くというのはかなり珍しいことだったのではないでしょうか。日本を出ることになったきっかけは?
銀座リッカーミシンの本社ビル
リトル東京にあるカジマビル
──そこからアメリカでたくさんの設計を手がけられたわけですね。 アメリカ日産の本社ビル、セイコー・インスツルメント本社ビル、三共精機西部本社ビル、ソニーのサンディエゴ工場…。ちょうどこの頃に日本のメーカーがアメリカに出てきたんですよ。それで彼らがまず必要だったのが倉庫とオフィスだった。だから鹿島との関係で、そういう仕事を随分しましたね。
リトル東京のホテルニューオータニ(現京都グランドホテル)
私が鹿島から独立して、ここでやろうと決心してオフィスをつくったのが77年。その時代って、松下幸之助さんなんかが言っていたんですけど、日本は人が多すぎる、だから日本はとにかく海外進出をしないとやっていけない、食べていけない、と。日本の外に出て仕事ができる人は、なるべくそうするのがお国のためであるという時代だったわけです。まぁ今逆にそれが仇になって輸出に頼りすぎて困ってるわけだけども。今と本当に考えが違いますよね。 それとね、やっぱり何と言ってもロサンゼルスは住みやすいですよ。特に気候が良いので、日本に帰るのも好きなんですけど、あの夏の蒸し暑いのはもう、なんとも。それと、あとは家族(娘夫婦と孫2人)がいるのが大きいですね。 ──それに、建築家という職業は、英語さえできれば割と国籍の壁が無いのでは? そうですね。アメリカという国がそもそもそういう国ですよね。弁護士にしても建築家にしても、外国人でもライセンスが取れますし。 ──デザインもアメリカのほうが斬新なものを出しやすいのではないですか? それはどうなんですかね。もう今はアメリカだろうが、日本だろうが、ヨーロッパだろうが、同じじゃないですかね。近頃はただただ奇をてらって、人を驚かせるような変わった建築がもてはやされる感じがするでしょう。特に我々は教育を受けたのが古くて、機能主義の教育で、機能を無視したらそれは建築じゃない、といまだに思っているので。それとやっぱりクライアントのためにはできるだけ予算に合わせて経済的につくるべきだと思っています。でも最近はオーナーさん自身がそういう変わった建物を望む場合も多いみたいですけどね。 ──高瀬さんがロサンゼルスに来られた頃と現在とではロサンゼルスは違いますか? それはもう全然違いますね。この40~50年の間に、文化的な面での水準がずっと上がりました。以前はニューヨークに比べたら、やっぱりロサンゼルスは全く田舎という感じだったんですけど、今はLAシンフォニーにしてもLAオペラにしても随分水準が上がりましたし。さらに東洋、特に日本の影響というのは、僕らが来たときとはもう全然違います。僕たち「LA着物クラブ」というのをやっているんです。着物が好きで、日本から着物を持って来ているけれど着るチャンスがない、という人たちが集まって、なんとか着るチャンスを作ろうということで始めた会なんですけど。私が南加日系商工会議所の会頭だった時に、リトル東京で夏にある「二世ウィーク」というお祭りの中のパレードで紋付羽織袴の正装でオープンカーに乗ったんです。そうしたら、それを見ていた人が、是非そういう日本の文化を守りたいと言ってくれて、この会をつくりました。今は随分アメリカ人の会員も増えて、みんな自分で着付けして帯も結べて。この間なんてお花見に行ったんですけど、アメリカ人の女の子がわざわざ桜の模様の着物を選んで着てきてね。こんなこと僕らが来た時代には考えられなかったです。 そんな高瀬さんは現在、ロサンゼルスのNPO「リトル東京サービスセンター(LTSC)」のプロジェクトを手がけられています。LTSCは、リトル東京で暮らすお年寄りや子どもたち、また日本人を含む外国人や低所得者層、英語のしゃべれない人たちの生活や住宅面などを支援をしている団体。このプロジェクトは、リトル東京に人々が集う場として「ロサンゼルス武道館」という体育館を含む集会施設を建設するというものです。 ──図面を拝見しましたが、日本建築を取り入れたかなり斬新なデザインですね。
ロサンゼルス武道館(完成予想図)
この設計の要点は、現代建築と日本の伝統建築との融合を目指しています。ファサードのコンクリート打ちはなしの柱と梁、それと対比する、障子をイメージした上部のミラーガラスのカーテンウォール、屋根の日本瓦、屋上の日本庭園などがポイントです。1964年にこちらへ派遣されて以来45年間、リトル東京の再開発のために微力を尽くしてきました。その間、カジマビルをはじめ、ホテルニューオータニ (現京都グランドホテル)、リトル東京プラザ(オフィスビルと駐車ビル)、東本願寺、都ホテルなどを設計、多分この「ロサンゼルス武道館」がリトル東 京での私の最後の作品になるだろうと思っています。だから全力を尽くして設計に取り組もうと考えています。 また、LTSCの方にもお話をうかがい、所長のビル・ワタナベ氏はこのLTRCのプロジェクトについてこのように語っています。
バスケットや剣道などの武道に利用したいと話す(完成予想図)
このプロジェクトの実現には、市からの助成金と企業やコミュニティからの募金が不可欠ということで、現在そのための資金を募っている段階。ビルさんは、募金と同時にこの施設の名前を冠す「会社のスポンサーも募集中」とも話していました。 ──最後は、建築に対する高瀬さんの想いで締めたいと思います。ずばり高瀬さんにとって建築とは何ですか? 私はそもそも若いとき建築家になるつもりはなかったんです。子どものときから飛行機が大好きでしたので、大学は航空学科に行くつもりだったんですよ。ところが戦争に負けて、マッカーサーの命令で航空学科が無くなってしまった。それで、どうしようかといろいろ考えたんですけど、結局どういうわけか建築を選んだんです。僕の仲間で一緒に模型飛行機をつくったりしていた、飛行機好きな友達の多くも建築に進んだんですよ。機械とか電気ではなく建築にね。それは何でだろうと考えてみると、僕らは飛行機のメカニカルな面よりも、格好良さや美しさといった面に惹かれていたんじゃないかと思うんです。工学部でそういう美しさを追求する分野って、建築しかないわけですよね。だから建築の、エンジニアリングでもあり、アートでもある、そういうところに惹かれて、今でもそれがおもしろいなぁと思っていますね。
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| 最終更新日 ( 2010/02/23 火曜日 20:04:44 JST ) | |||||||||||
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確かに日本を出ることが非常に困難な時代で、本当に幸運だったと思います。最初はブラジルに行ったんです。1964年に戦後最初の万国博覧会がブラジルのサンパウロでありました。その万博で、日本館の設計をされたのが、堀口捨己(1895-1984)先生という日本建築の大家の方でした。私はその頃、大学院に通いながら、堀口先生の教え子で大江宏(1913-1989 丹下健三氏と同期)先生という方の事務所で実務を勉強していました。堀口先生がかなりお年だったので、自分でブラジルまで監督に行くのは難しいということになり、大江先生に託されたんです。そして大江先生のアシスタントとして、私がブラジルに行くことになりました。
